大学の中で働いているひとのブログ

2012年3月に某国公立大学の工学部を卒業。 ・・・7年がかりで。えへへ(笑えない)卒業した後、転職先の職場は再び大学になりました。教育やら就職やら、大学から見た社会やらに関する四方山話をつらつら書きます。あ、でもたいていは仕事の愚痴ですかねぇ・・・w

それでも私たちは、教育について考えなくてはならない。

http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php

「学校教育の終わり」という、ちょっと衝撃的なタイトル。

しかし、いちいちもっともで、なんとも複雑な気持ちになりました。

特にグッときた部分をぽつんぽつんと、引用します。

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「日本の学校制度のどこが悪いのでしょうか」と訊かれるならば、「全部悪い」と答えるほかない。

学校教育システムを全部変えなければいけないのだが、部品は今あるものをそのまま「使い回し」てゆかなければならない。いわば、自動車を走らせながら修理するようなことを私たちは求められているのである。

学校教育の目的は「国家須要の人材を育成すること」から、「自分の付加価値を高め、労働市場で高値で売り込み、権力・財貨・文化資本の有利な分配に与ること」に切り替えられた。教育の受益者が「共同体」から「個人」に移ったのである。

グローバル資本主義国民国家とも、学校教育とも「食い合わせが悪い」のである。

不思議なことだが、「正直なところ、日本なんかどうなってもいい」と思っている人間しか社会的上昇が遂げられないように今の社会の仕組みそのものが再編されつつあるのである。

欧米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているというノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。

国民国家が解体する過程で、公教育は解体する。だが、「私塾」はそうではない。

隣人の顔が見え、体温が感じられるようなささやかな規模の共同体は経済のグローバル化が進行しようと、国民国家が解体しようと、簡単には消え失せない。そのような「小さな共同体」に軸足を置き、根を下ろし、その共同体成員の再生産に目的を限定するような教育機関には生き延びるチャンスがある。

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うーん、こういう「誰かが思っていたようなことだけれど、誰も語っていないこと」をサクッと言葉に出来る、という点では内田樹氏は、ほんとうに天才的に上手だと、私は思います。

最近の自己分析で、教育に関わりたい私の気持ちがハッキリと自覚できたのですが、こういう、今まで誰も体験したことのない局面に対して、何か不安であったり、と同時に可能性が開くことを察しているのかもしれないな、と(カッコつけていうのなら)思います(キリッ

歴史は繰り返される、といいますが、ここまでグローバル化が進み、ここまでインターネットで、一瞬に情報が行き来する時代を、今以上に誰も人間は体験をしていないのです。個々人で見ればハイ・スコアがあるでしょうけれど、全人類の「平均値」がその量・質と共に、大きく変化せざるを得ない時代が、今、押し寄せているんじゃないかと、背筋がブルっとします。

 

時代が変わったから、いらなくなるものと、時代が変わっても絶対に必要なものがあります。

 

私事ですが、最近京都に小旅行に行く機会がありまして、SLの博物館?に行きました。当時は蒸気機関車が最先端の乗り物で、雇用も増えて、路線もバンバンできつつある時代。

その中で「機関車の中で石炭を適切に投入する仕事」というものがあったそうです。

燃える石炭の間近で、適量を、適切な位置に投げ込む。観察力や体力など、色々な面で結構「キツい」仕事だったのだろうなぁ、と思います。同時に、訓練施設が出来、その技術を教える講師がいて・・・。という時代だったのですが今はそんな仕事してる人なんていません。

要は、時代によって求められているスキルや考え方は、めまぐるしく変化していく、ということ。それは職業選択にも直結し、職業選択の(手前側の)延長上には、教育の期間があるのです。

さて、でも私たちはこれから、そんな「先物買い」のように教育機会を選択していくことが「ベスト」なのでしょうか?英語を身につけ、プログラミングが何万コードも書けるようになるために、幼少期からトレーニングを積み重ねるような人生(極端だな・・)がベスト?(世のSEさん、なんだかごめんなさい、そんなつもりじゃ・・・あ、やめて!石を投げないで!)

私は、懐疑的です。もっともっと、時代が変わっても、人が人に教えたいことって、たくさんあるんじゃないでしょうか。思いやりだったり、礼儀作法であったり、仲間づきあいであったり、健康を自分で管理する方法であったり、おいしいお店を見つける方法であったり、ムカつくことがあっても、なんとか我慢して翌日にケロっとしている方法であったり。

 

教育の向こう側にある「人材」は、工業製品みたいなモノではありません。

笑って、泣いて、怒って、悩める、人間なのです。血の通った、ヒトなのです。

時代が、どんどん変化していきます。だから変わっていかなくちゃいけない部分(柔軟性を持って対応しなくちゃいけない部分)と、だけれども変わっちゃいけない部分(イチから、丁寧に、長い目で教え、育んでいかなくちゃいけない部分)を間違えてしまうと、トンデモナイことが起きてしまいそうです。

学校教育という「制度」が「老い」てしまい、「制度疲労」を起こしている。けれども、生まれてくる子どもたちには、そんなことを言い訳にしていても、誰も幸せになりません。(「君たちが良い教育を受けられなかったのは制度が疲労していたからなんだよ」って言われてもねぇ・・・)

 

国民国家を担うことのできる成熟した市民を作り出すこと」

この目的に、私は割と、賛成です。ただ、この文言を万能薬のように使用することは、ちょっと難しいような気がします。目の前のことに対処する処方箋になってないし。

どちらが正しい・間違っているって訳じゃなく、いろんな人の言うことを「ふむふむ、それも一理あるな」と素直に受け入れつつ、じゃあ自分はどんな教育が必要だと思うのか?という、メシの種にもならないようなことを、ちょっと考えてみたくなります。にんにん(なんじゃそりゃ)。

 

教育の問題(課題)に対して「他人事」でいないこと。

自分が何を感じているかに、耳を澄ますこと。

自分に何が出来るのか、考えること(そしてできれば行動すること)。

とりあえず、そんなことをチマチマとやっていくぞ、と決意表明しておきます。